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だまりこむ人は何を思っているのだろう

今朝10時から2時間続いた会議は衝撃だった。おいらが話した時間はたったの3分で、その反応(否定)に対する対応で7分ほどの時間を費やした。120分中の110分はひたすら傍観者だった。責められる人間と責める人間の攻防。責めるほうも責められるほうも必死だった。そこには対決感があり、前向きと後ろ向きのぶつかり合いがあった。恐ろしいほどの前向き感がそこにはあり、脅威を感じた。人はそんなにも前向きになれるものかとディスりたい気持ちにすらなった。

責められる方は徹底的に責められた。だまりこむ時間が微妙で、30秒くらいの時間をそこに参加する15人からの人間で共有する。言葉を立て続けに浴びせかけるわけでもなく、一定の時間が経過すると責める側が静かにその空白を埋めていく。年下同士の攻防が、おいらやおいらの年上世代を傍観者に変えた。責められる人間もできる人間なので、決定的なできない発言はしない。場を壊すような暴言をはかない。静かに反抗し、静かに自分の存在感を語りかける。

おいらなんか小さいもんで、こんなこと言われたらこんなことを言ってやるみたいなシミュレーションはするけど、誰もそんな想定通りに何かを言わない。想定でくやしい思いをして、現実では平穏無事に過ごすタイプ。誰かが苦境に立たされているのを見て、自分はまだまだ大丈夫だと安心するタイプ。CADというあまり近寄りたくない土俵にいるおいらと、同じ土俵に立とうとする人間はいない。おいらだって、主流派が跋扈する土俵で戦って打ちのめされたくない。

強い人間に共感は得られない。たたかれている人間の力になりたい。自分が力のある人間だとは思わない。自分の力で誰かを押し上げられれば満足する。非主流派がそこで生きていくためには、自分らしさと工夫が必要だとつくづく思う。

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